リストラ

私が勤めていた会社は、IT企業としてそれなりの知名度もありたくさんのユーザーを抱えていました。

ずっと右肩上がりの成長を続け、会社の規模もかなり大きくなりました。しかしリーマンショックや競合企業の台頭などもあって、ついに利益が赤字に転じてしまったんです。

子会社の統廃合、パートナー社員の整理など、「リストラ」という行為が迫っていたのを感じていました。

しかし、しかしです。

10年以上も務め、うつ病で途中リタイアはしましたが、会社のために働き続けた私をリストラはしないだろうと、心のどこかで思っていました。

しかし、やっぱり予想通りの事態になりました。早期退職制度が発令されたんです。しかし安心できたのは、この早期退職制度は45歳以上の社員に限定されていたことです。よかった、私は対象外だ、と安心しました。

ところが、事態は急変しました。


副事業部長と部長に呼ばれ、早期退職をしないか、という打診があったんです。

最初は何を言っているのかよく理解できませんでした。

早期退職制度が発令されたのは知っていましたが、どうして私にそんなことを言うのか。
当然私はその理由を聞きました。

状況としては、私と同じようにうつ病で休職している方から、自分も早期退職制度の対象にしてほしいと要望があったのだそうです。

そこで、うつ病で休職している方、休職の過去がある方も早期退職制度の対象にすることに決まったのだそうです。しかしこのことは会社として公表はせずに個別に対応をすることになったのだそうです。

「うつ病だからですか?」私は聞きました。「うつ病は理由ではない」という答えでした。そうだ、とは言わないですよね。

うつ病というのは、まだまだ社会では通用しないんだな、と痛感した瞬間でした。

しかしこのうつ病社員への早期退職は、強制ではありません。あくまでも自己判断で会社に残ることもできました。

私はかなり悩みました。せっかく希望する仕事ができている。やる気にもなっている。このタイミングで会社を去るという選択肢は、どういうことになるのだろうか。

恐怖すら感じました。

しかし会社から三行半を突き付けられて、そうまでして赤字の会社にしがみつく理由があるだろうかという思いもありました。

そんなことを1ヶ月くらい悩みました。

結局私の出した結論は「退職」でした。

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2010年11月15日 | コメント/トラックバック(2) |

カテゴリー:うつ病 仕事

久しぶりの1人暮らしへ

復職してからずっと、私は実家から会社に通っていました。実家は駅から遠かったので、両親に送り迎えをしてもらっていました。

会社が終わった後にうつ病の病院へ寄ることもあったり、外出することもあったりで、帰りが不規則になり、両親に負担をかけていることはわかっていました。

これが私にとってストレスになっていることは分かっていました。

うつ病にストレスは禁物です。

些細なことでも、自分の周りからストレスを排除する。これがうつ病治癒の最短ルートだと思います。

2009年の冬くらいから引っ越しを考え始めました。


妻と息子とは依然として別居しており、生活費を仕送りしている状況で、金銭的に厳しいことは分かっていましたが、うつ病治癒のためには仕方がないだろうという判断でした。
主治医にも相談をしました。

主治医は私のストレスを理解してくれていて、反対をすることはありませんでした。

ただ、新居は会社と実家の中間にするように指示がありました。何かあった時にすぐに実家に帰れるようにとの配慮です。

WEBでだいたいの目星をつけて、仕事帰りに物件を見て回りました。山手線内は家賃は高めだったのですが、実家への乗り換えが便利な駅の近くにちょうど良い物件を見つけることができ、契約しました。

決して広くはないし、東向きで日当たりも悪かったのですが、新しい私の城を作る嬉しさがありました。

こうして2010年1月から、私の新しい生活がスタートしたんです。

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仕事が軌道に乗り始める

仕事が軌道に乗り始める

復職してから、内勤の部署に配属になったと記載しましたが、内勤といっても出張があったりして、けっこうハードな仕事をしていました。

残業は禁止されていましたが、その決まりは「5時半に帰ること」というもので、ガチガチに拘束されていたわけではありません。

私は休職前から朝早く会社に行く習慣があって、9時半が始業なのですが、いつも7時半には会社にいました。

つまり、その時点で2時間分の残業をしている計算になってしまうのです。そのことに関しては特に誰も何も言いませんでした。

結局は自己管理ですので、つらいと思ったら早く帰っていましたし、気分が落ち込んでくる気配を感じたら早めに休憩をとるようにしていました。


このころから、「気分」という形のないものをコントロールできるようになっていたんです。

そうすると徐々にですが仕事に対する取り組みの姿勢も変わってきていた気がします。やる気が出たというか、復職してすぐは出社して帰るまで「気分」を保つことで精一杯でしたが、「気分」をコントロールできるようになり、集中できるようになっていたようです。

ほどなくして部署異動がありました。

私はずっと製造業向けのシステムに携わってきましたが、このころからマーケティングに興味を持ち始め、個人的に勉強などをしていました。

ちょうどそのタイミングでマーケティングの部署に異動することができました。

これはとても嬉しかったです。

製造業を相手にした部署の中のマーケティングの部署でしたが、自分が希望するような仕事ができると思い、追い風を感じたものです。

しかし、人生はそんなに甘くない。
今度はリストラの波が私を襲うことになりました。

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再び襲う孤独感

うつ病は絶望感や孤独感との闘い、とよく言われます。2009年12月頃、会社が嫌でたまらなくなってしまったんです。 今まで仕事が嫌いなんて思ったことはありませんでした。 ITサービス業のテクニカルコンサルタントとしてお客様に喜んでいただく仕事に誇りを持っていましたし、 製造業のお客様と接することが大好きでした。

しかし復職して6ヶ月目の10月半ば頃からなんとなく違和感を覚えるようになったんです。 まず朝起きられなくなりました。それまでは目覚ましがなれば苦労することも無く起きることができていたんですが 目覚ましを止めて2度寝するようになっていました。ただ単に疲れが溜まってきたのかな、 程度にしか思っていなかったのですが、これが11月、12月と月日が経過するごとにつらくなりました。

11月半ば頃から出張にも行くようになり、仕事もだいぶ軌道に乗っていたんです。 しかし、山形に出張に行った際、ホテルで夕食を食べているときにふと、「あ、仕事が嫌なんだ」と思ってしまったんです。 そう、仕事が嫌になっていたんです。朝に目が覚めると会社に行きたくないと思い、でも母親の送りで最寄り駅から電車に乗ります。 通勤時間帯ですから、みんな殺気立ってます。走っている人もいれば早足で歩いている人もいます。 そんな中、私はそれにつられて走るときもありましたが、たいていはそんな人たちよりもかなり遅いペースで歩いていました。

そして会社の近くまできて、「ダメだ」と思って近くの喫茶店で始業時間ギリギリまで コーヒーを飲みながら本を読んでいたこともかなりありました。


完全に再発でした。

主治医には「うつがぶり返してしまっている」「うつの症状がひどくなっている」と言われ、薬が増やされました。 うつ病の再発は予想していなかったわけではないんです。色んなホームページやブログ、 書籍を見ていて再発は避けて通れないのかな、と復職当時には思っていました。 しかし、復職してから多少の気分の波はありましたが、すこぶる順調に会社に来れていました。そこへ来てうつ病の再発です。

再び、「なんで自分だけ」という思いが蘇ってきました。 うつ病になり1日中窓から高尾山を眺めていたときの孤独感と同じ感情でした。 さらに12月になってもこの感情は消えず、減ってきた薬も再び増えてしまい、頭痛や眠気、 手の振るえなどの副作用に耐えながらなんとか2009年は過ぎていきました。 さらに年明けに引越しも済ませていたため、孤独感はよりいっそう強いものになって行きました。

両親や主治医、産業医、保健師の方々は引越しは時期をずらすことを考えた方が良いと言いましたが、 私の中には「今の状況を変えるには生活を変えないといけない」という思いの方が強かったのです。 主治医は当初私が探していた会社の近所に引っ越すのではなく、会社と実家の中間地点くらいに引っ越すのが良い、 とのことだったのでそれは主治医の指示に従いました。

会社に入ったときから1人暮らしをしていたので、慣れているとは思っていたのですが、 結婚して妻と暮らすようになってから分担作業が多くなり、 1人暮らしを始めてからの数ヶ月間はちょっとした足りないものを揃えるのに色々と奔走してました。 そのため、あまり自分と向き合う時間が取れなかったため、これはこれでよかったのかもしれません。

その後1人暮らし用のグッズが一通り揃って、周辺の環境にも慣れ、会社までも近いので通勤も楽だし良いことばっかりだ、 と思っていたのですが、実はそうではありませんでした。

やはり予想はしていましたが、孤独感が襲ってきたのです。誰もいない家に帰る。 ペット飼育可なのですが、そこまでの余裕は無いので飼いませんでした。朝起きても朝食は1人で作り1人で食べる。 食器も洗わなければならない。洗濯、アイロンがけ、掃除、と家事全般を1人でやるという事に対して、 「オレには家族がいるのに何でこんなことをやっているんだろう」と疑問を持つ日もありました。

しかも2重生活は無理だと伝えた妻は、仕事をなかなか見つけませんでした。 メールを出しても返事がなかなか返ってこない、電話をしても通じない。全く話をすることができませんでした。 私も生活があるので妻と息子の生活費と住居費の名目として10万円を出すから、 不足分は仕事を見つけて稼いでくれ、とメールを出しました。返事は返ってきませんでした。

しかし、私は上記の通りにしました。妻は私の給料振込先口座の操作をできるので、 私は給料振込先口座に10万円だけが振り込まれるようにして、妻に、「そのお金がオレからの援助金だから」 というメールを出しました。給料の残りは私の口座に振り込まれるようにしました。 それでも妻は仕事探しをしているのかしていないのかも連絡がなく、 またどういう就職活動をしているのかも私には連絡がありませんでした。

上記の通り、妻からは一切連絡がないんです。私は「妻」という存在を疑い始めました。 彼女はいったい誰だったのだろう、大学の頃から付き合ってきた彼女ですから、 もう10年以上も付き合ってきました。しかし、この時の連絡手段のメール、電話が通じない。 拒否はしていないようだけれども返信がない。

こんなことをあれこれ考えているうちに孤独感は増すばかりでした。

しかしやはり孤独感は消えません。絶望感、孤独感、喪失感、などなど、 これらは一生背負っていかないといけないのかな、と当時は思っていました。

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妻が出した結論

復職して7ヶ月ほど経った頃だと思います。私は相変わらず実家から会社に通い、妻と子供は八王子に2人きりで住んでいました。 そんな状態が自然なこととは誰しもが思っていなかったのですが、妻のトラウマが治らない限り私が八王子に戻ることはできなかったのです。

私自身、実家で長く世話になるつもりはありませんでした。第一私の父親はすでに定年して年金で暮らしています。 一応、妻は私の両親向けに私の生活費という名目でお金を出していましたが、私の両親は受け取っていませんでした。

私の実家はJR線から私鉄に乗り換え、さらに最寄り駅からは自動車でないと通えない距離にありました。 さらに、会社から最寄り駅までは1時間30分強の時間がかかり、仮に19時半まで仕事をしてしまうと家に着くのは10時近くなってしまうのです。

私が社会人になって一人暮らしを始めて、両親だけの生活が始まってから、両親は毎日9時ごろには寝てしまう生活でした。 それが私が身を寄せることで生活リズムが狂ってしまっていたのです。これは私にとって大きな負担でした。


そんな時のことです。主治医がある提案をしてくれました。 「奥様との別居生活は、奥様の気持ちの整理がつくまで続くことが予想される。 実家でのストレスが大きいのであれば、あなたが1人暮らしを始めるのはどうですか?」というものでした。 しかし、当時の私の給料での2重生活は無理でした。そこで私は妻に対して4つの選択肢を提示しました。

①.年明けから八王子の家に私が住む(妻と息子は妻の実家に引越し)
②.年度末から八王子の家に私が住む(妻と息子は妻の実家に引越し)
③.私がどこかで1人暮らし(妻と息子は八王子の家で今まで通り)
④.妻と息子が2人暮らしを始める(私が八王子の家に住む)

妻が選んだ選択肢は③でした。

この選択肢をどう考えるかは人それぞれ難しいですが、私は離婚を考え始めました。 妻にとって息子はもちろん大切な存在です。しかしそこに私がいなくてもいいのだな、私の必要性はなくなったんだな、と私はその時思いました。 この時の私を冷静に見てみれば、養育費や住居費、食費、生活費などのお金を出してあげているだけで、事実上の離婚しているのと同じだなと思いました。

この時はさすがにカッターに手が伸びました。が、寸前のところでやめました。 以前であればそのままザックリといっていたと思うのですが、その時は「人生の第2ステージが始まったんだ」と考えを変えることができたんです。 これこそがうつ病の治癒の第1歩だったのかもしれません。

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仕事への疑問

復職してちょうど上期が終わり、下期の戦略会議がありました。うちの会社は期初に全事業部員が集まって「戦略会議」が行われるんです。 戦略会議といっても名ばかりで、営業の成績報告、そして「下期も頑張ります!」みたいな、 妙な体育会系のノリで終わってしまうのが通常のものでした。

そして2年半ぶりに戦略会議に出てみたのですが、やはり内容は同じ。 営業部長やマネージャーが「上期は予算未達でスイマセンでした」から始まり、 上期の活動の振り返り、そして案の定「下期も頑張ります」で終わっていました。どういう戦略を立てていて、 どういう戦術を使って予算の達成を目指すのかが全く明確になっておらず、これじゃぁ2年前と同じだな、というのが率直な私の感想でした。

こんなことをこんなところで言っていいものかどうか分かりませんが、うちの会社は相当な赤字です。 株主への予算下方修正を繰り返し市場においても信頼度が下がってます。一時期はIT企業ではトップクラスだったのですが、 どんどん競合が増え、すっかりおとなしくなってしまいました。まして赤字で大変なこの時期に、「下期も頑張ります!」では困りますよね。


私はこの時は目標設定面接もしていなかったので、第三者的な目で見ていたのですが、 会社の戦略、事業部の戦略、部の戦略、グループの戦略とブレークダウンされて目標が決まり、 各社員が戦術を考えるのが通常だと思いますが、「どうすれば予算を達成する」という一番肝心なところが抜けているんです。 出席しただけ無駄だったなと思いました。

そんな中、私はずっとアフィリエイトでお小遣い稼ぎをしてましたから、こっちを本業にしてはどうなんだろう、と考え始めました。 この時のアフィリエイトの収入は楽天が月2万~3万ポイント、物販が1万円程度、 PPCは広告費を入れれば月3万~4万円程度、Adsenseはゼロ。本業としていいものなのかどうか悩みました。 色んなネット起業の本も読みました。しかしこの時は「まだ早い」と思い、とりあえず本業はまだ残業規制などがあったので、 副業としてもう少し力を入れてみるか、と決心しました。

上述のような戦略会議をやっていたのでは、うちの会社は今もですが、いずれものすごい危機が訪れるような気がするんです。 その時に食べていけるように得意分野というか何か別なスキルを身につけておこうと思いました。

うつ病を経験してから、物事を冷静に客観的に見ることができるようになっていました。 自分の心をコントロールするために闘ってきた成果なのかもしれません。自分の心が危うい、 と思ったら気分を落ち着ける頓服薬を飲むとか、仕事中にどうしても落ち着かなくなってきたときには適度に休憩を入れるなど、 今までの私はやっていなかったような「自分への対処」ができるようになっていたんです。

これが後に出てくる「起業への決意」の一端でもありました。

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ある本との出会い

仕事が少しずつ増えてきて、出張もするようになりました。山形県に出張する機会があったのですが、 東京駅の本屋でふと目に付いた本があったんです。タイトルは「うつな人ほど強くなれる」というものです。

これ、冷静に見ると「ホント?」と思える部分もあるのですが、うつ病になるような人は元々すごく繊細で慎重で仕事に妥協を許さないような人だ、と。 それらは会社にとってものすごく戦力になる力を秘めていると。

うつ病は心の地震のようなもの。うつ病と長く付き合ってれば「地震」が来ることは事前にキャッチできる。 その地震が予期できれば全く怖くは無い。

また頑張り屋さんもうつ病になりやすい、と書いてありました。 うつ病は心の弱い人がなるのではなくて心の地震を察知できなかったからかかってしまう。


と、ざっと内容を簡単に書きましたが、一言で言ってしまうと、 「うつ病の人には成功する条件がそろっている」だそうです。

この本、捉え方が難しいです。私は復職して会社に通っていて出張できるほどに復活したときに読んだので「なるほど」と思えましたが、 うつ病真っ最中の方が読んだら、きっと「そんなに考え方を変えられない」と思うことでしょう。

しかし元気を与えてくれる本ではあると思います。うつ病の方への啓蒙の本ですね。 うつ病の方(私も含めて)は、社会のクズという意識が強いですが、「社会のクズではなくてあなたこそ成功する」 と書かれているので多少モチベーションはあがるのではないでしょうか。

私も休職中に色んな本を読みました。毎晩のようにWEBでうつ病を調べ上げました。 そんな中で、出張に行くために新幹線の中で読む雑誌を買いに立ち寄った本屋で目に付いたこの本はけっこう衝撃的でした。

Amazonなどでもけっこう売れているようなので、気になった方は読んでみてはいかがでしょうか?

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家族との決別

妻と息子とは別居生活を続けていたのは前述の通りなのですが、この不自然な生活を長く続ける気は無かったんです。

妻にトラウマがあり、その原因が私にあるのは分かってます。 しかし夫婦として同じ戸籍に入っている以上、私は家族と一緒に暮らしたかったんです。

会社から入る給料は妻が管理していました。私は毎月小遣いをもらうだけ。 これがだんだんと働いたお金をむしり取られてしまっている、と感じるようになってしまったんです。

あるときふと考えたのですが、私の復職を喜んだのは両親だけでした。 妻からは何の連絡もなかったんです。ちょっとだけ期待してました。 「復職おめでとう」みたいなメールを。でも何の連絡もありませんでした。 私の存在があまりにも怖くてメールを送ることさえできないのか、 ただ単にそういう祝福の言葉を出すという習慣がないのか、これまた色々考えました。

妻は不定期ですが私の会社に来て産業医と面談をしていたんです。 産業医はその妻との面談内容は「全て」私にフィードバックするという約束だったんです。 しかし、妻と電話で話をしたときに私の知らないことがたくさん出てきたことがありました。

その時、復職して4ヶ月間、何も無かった方が不思議だったのかもしれませんが、私の怒りが爆発しました。 まず会社の「健康管理室のあり方」について問いました。あと約束だった「全部フィードバック」がなされていなかったこと。


健康管理室の保健師の方にメールで質問を出しましたが、ラチがあかないので、 分かりやすい2択の質問状を書いて渡しました。産業医面談前日に渡してそこそこの答えが返ってくるのかと思ったのですが、 何1つ私の納得するような回答は得られませんでした。

産業医面談の時には産業医に質問状を渡しました。産業医はプロなので質問の1つ1つに丁寧に答えていただきました。 私が納得いかない部分もありましたが、もう疲れてきたのでやめました。

この時の私の怒りは相当ひどかったので、主治医も薬の調整をしたんです。 薬が変わるとまず副作用がでるので体力的にすごくきつく、何度か薬を調整されました。

と、言うようなやはりちょっとしたことで私の感情が変わったり、薬で体調が激変する中で、 仮に別居生活が終わり一緒に住めるようになっても、こういう怒りが現れるとまた妻にトラウマが残ってしまう、と考えました。 妻のトラウマの特効薬は身の安全の確保と聞いていたので、離婚を決意しました。その旨を妻にも伝えました。

しかしその後もズルズルと別居生活を続けていたのですが、10月ごろに妻に今後の3人の生活について4問の質問を送りました。 その結果、妻が選んだのは私が実家を出て1人暮らしをする、という選択肢でした。 この文章をどのようにとられられるかは分からないのですが、私はもはや同じ戸籍に入っている意味すらないので離婚しよう、 とメールを出しました。

さらに、私の給料では妻と息子が住んでいるマンションと私が1人暮らしをするマンションの家賃を支払っていくことは少々厳しいので、 妻に働きに出てくれ、と伝えました。しかし、どういう就職活動をしているのかは知りませんが、 現段階でも仕事は見つかってません。ですので私も実家に留まっています。

家族に会えなくなるのは私もとても寂しいです。まして息子は私と散歩をするのが大好きで「またお散歩しようね」などと言っていました。 息子はかけがえの無い存在です。息子のためなら何でもします。しかし私の「闘病生活」が終わりうつ病が完治するまでは危険だなと思ったんです。

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予想外な仕事ぶり

復職してから仕事の負荷を少しずつ増やしていったのは復職のところで書きましたが、 仕事は実は私が予想していたような昔の通りの仕事ができなくなっていたんです。

まず最初に悩まされたのが「物忘れ」です。リーダーの方から「こういう動画を作ってくれ」と言われても、 打ち合わせのテーブルから自席に戻る間に、受けた指示を忘れてしまうんです。これはかなり苦労しました。 主治医に聞いたところ薬の副作用とのことでした。これはしょうがないので、打ち合わせの時にはかなりの量のメモをとるようにしました。

しかし、これも副作用なのかもしれませんが、手の震えがすごかったんです。 書いたメモはその日のうちに見ておかないと、何を書いたのか分からないほどでした。

自分が予想していたような仕事ができない。また仕事のパフォーマンスも上がらない。 当然、結果も出ない。かなり悩みました。2年間も私と私の家族を支えてくれた会社ですから、 早く恩返ししたかったし人並みの仕事ができるように、 朝は7時くらいから会社に来てまだ誰もいないうちから扱っていたソフトウェアの勉強をしてました。


しかしなかなかパフォーマンス、アウトプットが出ない。

さすがに落胆しました。でも部長と話をして、「お前にいきなりアウトプットは期待していない。 むしろ毎日きちんと会社に来て、作業レベルでもいいから粛々と出された仕事をこなしてくれ」と言われました。 社会人になって12年目です。会社的にはもっとも稼ぎ頭な年齢です。思ったように仕事ができない自分をかなり責めていたことを覚えています。

チームリーダーにも話をしました。チームリーダーも部長と同じことを言っていました。 チームリーダーには「2年分歳をとって、そりゃぁ記憶力も落ちる。体力も落ちてるし会社に来てることが大切だとおもうぞ」と言われました。

私の周囲の方々は休職前の私のことを知っているので、早く病気を治して復活を望んでいました。 そして戦力として働いて欲しいと期待してくれていました。

それが本当に嬉しかったです。

また、別会社なのですが、休職前にずいぶん長く付き合った友人がいるんです。 その方は私が扱っていたプロダクトの日本法人の方で、復職してから2年ぶりに会いに行きました。 「久しぶりだから飲みにでも行きましょう」という話になったら、その友人の上司2人(面識ありです)もついてきて、 「復職祝いをしましょう!」と言うことになってしまいました。6月中旬のことです。 12年間の社会人生活で築いた人間関係は私にとって貴重な財産なんだなと痛感しました。

私の周りには仲間がいる。きっと自殺なんてことをすると悲しんでくれる。もっと頑張ってみよう、と思えるようになりました。

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続く別居生活

今でも私は妻と子供とは別居生活を送っています。それは私の薬による非人間的行為によって妻にトラウマが残ってしまい、 一緒に過ごすことが困難になってしまったからです。

今では別居生活は1年以上になります。幼稚園などのイベントなどの際には会いに行ったりするのですが、それ以外はあまり連絡もとりません。

以前、息子の運動会があり、そのために望遠レンズをレンタルして家に行ったのですが、 前日の夜にインフルエンザにかかってしまい、ひきつけを起こして夜中に救急車で病院に行ったんです。 運動会当日も熱が下がらなかったため運動会は休みました。

私としてはすっかり行く準備を整えていたので、「見に行ってもいいか?」とメールを出したところ、 「来れば」という返事が来たので数ヶ月ぶりに妻と息子に会いに行きました。 息子は思ったよりも元気で食欲もあり一緒に昼寝などをして1日過ごしました。 息子は「お父さんのところに行きたい」などと言い出してしまい、「寂しい思いをさせてしまっているんだな」と迷惑をかけている自分を責めました。


息子を寝かし、終電ぎりぎりまで妻と話をしたことを覚えています。 私の病状、仕事の様子、パキシルのこと、などを2時間以上話をしました。 しかし、後でメールで聞きましたが、やはり私の姿を見ると薬による非人間的行為を思い出してしまう、と言われました。

これはもう私の力の及ぶ範囲を超えているので、主治医や産業医に相談しました。 産業医のところには何度か私と妻の2人で伺ったことがあるのですが、 産業医は「PTSDほどではないが軽いトラウマの疑いがある」と言われました。

もし、妻が「トラウマ」という状態を認識して病院に通う決意があるのなら、専門知識を持った医者を紹介することができる、 と言われ妻にも相談したのですが、結局その話は流れました。

そうこうしているうちに別居生活が1年以上にも及んでいるのです。

うつ病は私だけでなく私の家族をも悲しみや苦しみを与えるとてもつらい病気だな、と改めて痛感させられています。

離婚も決意しました。このまま妻に私の存在が大きくのしかかっているのであれば、それを取り除いてしまうのが一番の安全策なのではないかと思ったからです。

周囲の方々は反対しています。私が薬の影響で正常な判断ができない状態で、 そういう大きな決断はやめろ、と言うからです。それは私も知っています。 色んな本やホームページで見てますので。しかし妻と息子が2人っきりで、 私は実家にいるという不自然な生活スタイルを1年以上続けて、もうそろそろ限界かな、と思っているのです。

離婚したからといって別居が解除されるわけではありません。それは分かっています。 しかし妻から少しでも負担の元を取り除いてあげることが最善だと考えたのです。

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