復職
2007年3月に休職してから、約2年が過ぎた頃でした。産業医面談を1カ月に2回程度行っている中で、休職期間の満了が近づいてきていました。
うつ病の状態はだいぶ改善してきていましたが、気分の波や薬の副作用はまだ残っており、復職するにはまだ早いという産業医や主治医の判断がありました。
しかし、休職期間が満了してしまうと会社から生活費が出なくなるというつらい現実がありました。
この時の私は妻とは別居していましたが、妻と息子の生活費は会社の健康保険組合から出ていた傷病手当でまかなっていたのです。
この傷病手当が出なくなる。それでは私を始め妻と息子が路頭に迷うことになってしまいます。
とても辛い、究極の選択のような状況ではありましたが、私は復職させてくれと産業医に申し入れました。
ちょうど2009年の4月ごろだったと思います。
産業医も上記のような状況は理解してくれていましたから、復職する最善のタイミングをいろいろと考えてくれました。
会社とは2年ものブランクがあります。私が知っている会社とはきっと色々と状況が違っているはず。そこにストレスを感じることなく入り込めるタイミングは、ゴールデンウィーク明けということで傷病手当支給期間のぎりぎりのタイミングで復職することになりました。
私が在籍していた会社では、原則として復職は休職時の部署への配属となります。しかし、休職時の部署はかなりの激務で、休職明けの私には耐えられないだろうとの上長の判断により、外出の少ない内勤の部署に配属になりました。
そして2年ぶりの出社の日。
通勤電車だって駅の雑踏だって、ものすごく新鮮な感じがしたのを覚えています。
うつ病で休職して1週間おきに病院に通っていたころは、なんだか社会に申し訳なくてずっとうつむき加減に歩いていたものです。
でもこの時は、ようやく胸を張って歩くことができると、うれしく感じることができました。
帰ってきた。
帰ってこれた。
新しい人生の始まりだ。
そう、自分自身に言い聞かせながら会社に向かいました。
しかし、これですべてがうまくいくわけではありませんでした。
私のうつ病はまだ完治していなかったのです。
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2010年11月15日 | コメント/トラックバック(0) |
妻のトラウマ
パキシルを減らしていく過程で、私が切れて人間とは思えないような行動を続けていたのですが、 その「薬の影響で切れた人間」というのはものすごく恐ろしいものなんだそうです。
まして間近で接していた妻の恐怖心は容易に想像できるものではありません。
そんなことを何度か繰り返しているうちに、妻は私の存在に恐怖心を抱くようになってしまいました。 主治医や産業医にも相談をしました。PTSD(心的外傷後ストレス障害)ほどひどく心に傷を負ってはいないが、 軽いトラウマの常態になっている可能性がある、と言われました。
私はかなり悩みました。私のうつ病が原因で最愛のパートナーまで傷をつける結果になってしまった。 自分を責めました。責める矛先は自分しかないですからね。自分にすくう悪がまた蘇ってきました。 案の定、カッターを手にしました。その時はかなりざっくりといってしまい、今でも傷が赤黒く残っています。
病院に連れて行こうかとも思いました。まずは私の主治医に相談し、代理診察という名目で妻を1人で行かせました。 やはり妻には私に対する恐怖心が残っており、一緒にいると怖いと感じるようでした。この妻の恐怖心は、 私の病状が落ち着き、復職してもなお続いてしまい、夫婦関係に大きな影を落としました。
しかし全ての責任は私にあります。何とかしてやろうと色々考えました。 しかしいいアイディアがなかなか思い浮かばず、月日だけが過ぎていきました。
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2010年11月15日 | コメント/トラックバック(0) |
うつ病治療薬による非人間的行為
パキシルが以前の半分ほどの量になった頃のことです。 気分を盛り上げるパキシルと抗うつ剤のトリプタノールの天秤のような状態を 主治医が少しずつ調整をしてくれていたのですが、そのバランスが上手くいかない時なのかもしれませんが、 些細なことで切れるようになってしまいました。
その「切れる」という行為ですが、もう凄まじかったそうです。 と、他人事のように書いているのは、私自身がその行動を覚えていないんです。
途中までは覚えているんです。かっ、と頭に血が上って体中が熱くなり、大声でわめき散らし、 睡眠薬やら抗うつ剤やら、そこら辺にある薬を手当たりしだいに飲んでいました。 このあたりまでは覚えているんです。そこから先はよく覚えていません。
後で妻から聞いた話ですが、今までに見たことの無いような形相で、 大声でわけの分からないことをわめき散らし、薬を大量に飲んで家を飛び出して行く、 というのがお決まりのパターンだったそうです。そしてしばらくして帰ってくるとかなり酒臭かったと。 フラフラで帰ってきてそのままベッドに入り込んで寝ていたそうです。
この行為、いったい何回やったのかすら覚えていません。 この「薬による非人間的行為」は、間近で見るとその恐怖は相当なものだそうです。 産業医の先生は以前外来をやっていたこともあるそうで、 この「薬による非人間的行為」を目の当たりにしたことがあるそうです。
妻は必死だったことでしょう。何をしでかすか分からないような状態になってしまった私を見て、 自分も怖かっただろうし、息子を守らないといけないという思いに駆られたと思います。 もしかしたら私は妻や息子に暴力を振るっていたかもしれません。それすら覚えていないのですから。 でも私がベッドから起きたときに妻と息子の顔を見て、特にあざとか殴られた痕はなかったのでたぶんそれはしなかったのでしょう。
この行為は3ヶ月以上も続いたと記憶しています。病院に行くたびに薬の量が変わり、 そのたびに暗く落ち込んだり、切れたり、落ち着いていた時もありました。薬で操られている自分の感情。 この頃は精神的にかなり弱っていました。
そしてこの「切れる」という行為が、この後の私たち家族を引き離すことになるなんて予想もできませんでした。
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2010年11月15日 | コメント/トラックバック(0) |
パキシルの減量
赤坂の病院は、産業医の先生がかなり信頼をしているようで、 またお互いのことも面識があるようで紹介から診察まではスムーズに行きました。 しかしかなり人気のある病院のようで、いつも予約でいっぱい。 私が行く時間はいつもほとんど午前中でしたが、かなり混んでいました。 「うつ病の人って多いんだなぁ」と思いました。
そして赤坂の病院の主治医は私の状況や薬の状況を見て、やはりパキシルに目をつけたようです。 しかしもう1年以上も飲んでいる薬。簡単に減らしていくことはできないようです。 少しずつ、減らしていきました。「産業医面談再開」のところでも触れましたが、 私の体は、パキシルで気分を盛り上げ、トリプタノールで盛り上がりすぎの気分を下げる、 というまるでやじろべえのような処方をされていたため、パキシルとトリプタノールの関係がとても難しかったようです。
私はあまり気にしていなかったのですが、やはりパキシルが減ると気分が下がるようでした。 立川の病院に通っていたときのような、登山とかアフィリエイトなどに集中して取り組む、 みたいなことは全くなくなってしまいました。すべてをパキシルのせいにできるのかは知りませんが、 私は症状が悪化してしまったと思い、何度か文句を言ったことがあります。 さらにイライラ感が出てきてしまって頓服剤としてディスパダールという液体の薬も処方されました。
薬で操られる私の体。気分がいいものではありません。 「転院したら悪くなった」という思いが強まる一方で産業医が薦めるのだから、との思いもどこかにありました。
しかし、イライラ感は増すばかりです。行動は起こせないんです。 ただイライラする。しかも日を追うごとにイライラ感はまして行きました。 この頃は精神的にも肉体的にもかなりつらかったのを覚えています。
パキシルが大体半分程度になった頃でしょうか。ついに爆発する日が来てしまいました。 怒りが頂点に達し「切れる」ようになってしまったんです。
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2010年11月15日 | コメント/トラックバック(0) |
産業医面談の再開
ちょうど2008年の夏ぐらいでしょうか。産業医面談が再開されました。 私は高尾に住んでいた関係で休職直前に産業医が「品川まで通院するのは大変だろうから、慈恵医大を紹介する」と言われ、 紹介状を書いてくれました。京王線の国領駅にある慈恵医大第三病院です。私は薬がなくなる直前に慈恵医大を訪れました。
紹介状を持っていたため診察まではとてもスムーズでした。 しかし慈恵医大の診察はとても私が満足できるようなものではありませんでした。
診察室に通された時、担当の先生(主治医ではない研修医です)に色々と聞かれました。 今の状況、薬の状況、などなど。そして数分後、担当医が現れました。 そこで私は驚きました。「え、ここで診察やるの??」って感じです。
どのくらいの広さの部屋なのかは分かりませんでしたが、隣の患者さんとの仕切りはカーテン1枚。 当然隣の声は丸聞こえです。プライバシーなんてあったものではありませんでした。 タダでさえも外出すら面倒なうつ病患者が電車に乗って国領まで足を運んだ挙句、 こんな野戦病院みたいな環境では診察してもらいたくありません。
会社の健康管理室の保健師に電話をして、「慈恵医大は私には合いません。他に紹介してくれる病院が無いのであれば、八王子近辺で自分で探します」と伝えました。
妻も色々と病院を探してくれました。結果、立川になかなか評判のいい病院があって、そこに通うことにしました。 先生も私の話を良く効いてくれて感じのいい病院でした。結局立川の病院には1年ちょっと通うことになりました。 それが2007年の4月くらいのことです。
そして2008年夏、約1年ぶりに産業医と保健師と対面したときの産業医の私に対する第一印象が 「人間らしくない」の一言。産業医は別の大学病院で外来などもされていたようで、 私のような「負のオーラ」を出す人をずいぶん見てきたとのコト。そこですぐに「パキシルは何mg飲んでいますか?」という質問でした。 何mgかは忘れてしまいましたが、産業医いわく、人間が飲む量のMAXを飲んでいたとのコト。 パキシル自体は立派な抗うつ剤です。厚生労働省も認可している薬です。 しかし産業医いわく、「この薬は合う人と合わない人がいる。あなたにはもしかしたら合っていないのかもしれない」と言うんです。 産業医がその時飲んでいた薬を見た結果、「パキシルで気分の低下を防ぎ、 気分が上がりすぎるのをトリプタノールという薬で押さえ込んでいる。」とのこと。 それ自体、悪い処方ではないのですが、人によるとのコトだったんです。 私は品川まで来ることができるくらい体調が良くなったのであれば、病院を変わった方がいいと言われました。
私の負のオーラは相当なものだったのでしょう。かなり説得されました。そこで私は転院を決意したんです。 次の病院は赤坂にありました。高尾からは京王線で新宿に出て丸の内線に乗り換えて少し行ったところです。 私は転院に当たり立川の先生に挨拶に行きました。状況を説明し、今まで診ていただいたお礼をしてきました。 私にはこういう義理堅いところがあるんです。
そして赤坂の病院でパキシルの減量が始まりました。
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2010年11月15日 | コメント/トラックバック(0) |
うつ病とアフィリエイト
Adsenseが無くなってからは、ブログを使った物販、PPC広告、楽天アフィリエイト、モバイルアフィリエイトなどなど、様々なものに手を出しました。
早く稼ぎ頭となるサイトを作りたかったのが原因かもしれません。とにかく早く結果が出る「何か」を求めて、 ブログなりホームページなりを作り続けました。
そんな中で、ようやく見つけたのがPPCと楽天アフィリエイト。PPCは簡単なホームページを作ってオーバチュアで出稿してました。 これはA8というASPを使って、月に2万から3万を稼いでいました。楽天アフィリエイトは月に2万から3万ポイントぐらいを稼いでいました。
ブログの物販もけっこう長く続けていたのですが、なかなか集客が思うように行かず結局売り上げは上がりませんでした。
モバイルアフィリエイトはHTMLの構文がPCのホームページのように複雑ではないので今でも続けています。 こういうのって今頃になって売り上げが上がるようになるんですよね。これまで色々アフィリエイトは経験してきましたが、 結局「継続は力なり」で収入が上がらなくても踏ん張って長く続けていたものが時間差で結果が出るようになっているようでした。
でも私が目標に掲げていた「家族を養う」ところまでの稼ぎにはいたらず、結局は私のお小遣い程度しか稼ぐことはできませんでした。 それも悩んでいた時期があります。どうやったら大きく稼げるか、稼ぎを増やす方法は他にあるのか、 私のやっている手法はどこか間違っているのか、色々悩みました。しかし私のうつ病の脳みそでは、そこから先のアイディアが浮かんできませんでした。 しかしインターネット上に転がっているあらゆる情報収集は毎日のように行っていました。 スポーツ新聞のRSSはもちろん、私はIT関連業にいたのでIT関連の最新情報の収集、パソコン関連情報、アフィリエイトの最新情報、 SEOの最新情報などなど、あらゆる情報収集をしていました。後々これらの情報収集は意外なところで私を悩ますことになりました。
結局休職中のアフィリエイトは成功とは言えないものでした。これはすごく残念なのですが、復職時点でマイナスだったのはとても悔しかったです。 タダでさえも負けず嫌いな私。このままでは終わらない、そういう思いを持ったまま今でもその思いは変わりません。
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2010年11月15日 | コメント/トラックバック(0) |
情報商材を買いまくる
それ以降、情報商材を買いまくりました。最初のAdsenseの商材が9800円だったのは覚えています。 しかしそれ以降の情報商材の値段はもはやよく覚えていません。何個買ったのかも覚えていません。 安いものは5000円程度、高いものは40000円程度だったような気がします。
結局、元が取れるようなことはありませんでした。
当たり前ですよね。1つの商材を1ヶ月も実行しないうちに次の商材を買っていたのですから。 何事も「石の上に3年」とは良く言ったものですが、継続して実行しないと結果は出ません。 私はそれを情報商材のせいにして次から次へと買いまくったんです。いわゆる「情報商材コレクター」ってやつです。 支払いはカードにしていたのですが、私の個人口座のお金はあっという間に底をつきました。 カードの支払い金額を見て青ざめたのを今でも覚えています。
そこで初めて自分がやってきたことのおろかさと最初の思いであった「家族を養う、幸せにするためにインターネットで稼ぐ」というのが、 いつの間にか、タダ単に「インターネットで金を稼ぐ」になっていたんです。 支払いができないので妻に相談しました。妻は、健康保険組合からの少ない傷病手当金を一生懸命やりくりしていたのです。 そこに私がカードを使いすぎて払えないから金を捻出してくれ、なんて相談をしたんです。 妻の落胆ぶりは今でもよく覚えています。妻は怒りました。「まずはあなた自身でどうにかしなさい」。 私は大切にしていたカメラやレンズを売り払いました。それでいくらかは足りたのですが、あと数千円、ってところで結局私は私の両親に頼み込みました。
それ以来、情報商材を買いあさるようなことはなくなりました。1つのことに専念するようになったんです。
そこで初めて当初の目的でもあった「家族を養うためにインターネットでお金を稼ぐ」に注目して作業をするようになりました。 しかし全く情報商材を買わなくなったわけではありませんでした。 Adsenseでいくらか収入が入るようになったときに、もっと自分の作業を効率的に行うことができるツールとか、 情報商材を吟味するようになったんです。例えば自分の作業の効率化について考えていたとき、 ある商材を見つけてもすぐに買うことはせず、徹底的に商材について調べ上げて評価や評判、 レビューなどを徹底的に見るようになりました。それで私の作業にあまり役に立ちそうに無ければ買わなくなりました。
結果的にAdsenseでは月に3万円程度は稼げるようになっていました。 しかし、Googleは気まぐれです。ある日突然私のAdsenseアカウントが剥奪されてしまいました。 警告は何度か受け取ったことはあります。その都度ブログを修正し、これで良いか、とお伺いを立てていました。 そしてGoogleからOKは出ていたのですが、本当に突然のことでした。 その時に残っていた残高は程なく振り込まれましたが、それ以来Adsenseはやらなくなってしまいました。
そこから急に収入がなくなったわけです。さすがにちょっと予定が来るって焦りました。 これはリスク分散できていなかった私のおろかさです。 Adsenseと同時に複数のアフィリエイトをやっていればAdsenseがなくなっても収入の柱はあったのでしょうが、 ゼロになってしまったわけですから。そこから私は色んなアフィリエイトにチャレンジすることになるんです。
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2010年11月15日 | コメント/トラックバック(0) |
アフィリエイトを始めてみる
そうしてインターネットで稼いで家族を養っていこうと決心した私は、Googleで色々と情報を調べました。 そんな中で「Google Adsense」というものを知ったんです。
今ではすっかりメジャーになったGoogle Adsense。様々なブログやホームページで見かけるようになりましたね。 有用な広告ももちろんあります。しかし明らかに内容の薄いブログなどにAdsenseだけを貼り付けているのもちらほら見かけます。
最近ではGoogleの監視の目も厳しくなり、そういった内容の薄いサイトにAdsenseを貼り付けているとほどなく 警告のメールが来るようになりました。今ではAdsenseで稼げなくなったのか、と思っておられる方もいるようですが、 まだまだAdsenseで稼ぐことはできます。
このAdsense、私にはノウハウはありませんでした。 GoogleのAdsenseのページをみると、ヒートマップと呼ばれる、クリックのされやすい位置を確認することができますが、 当時の私はそれすらよく理解できませんでした。
ブログに貼り付けている人が多かったので、私も見よう見真似で、昔趣味でかなり入れ込んでいた魚釣りのブログをつくり、 試しにAdsenseを貼り付けてみました。しかし結果は目に見えてますね。 当時の私はブログの知識も無ければAdsenseの仕組みすら分かっていなかったのですから。 時間はあるので勉強すればよかったのでしょうが、インターネットで調べて、1つ、見つけてしまったんです。 「情報商材」と呼ばれる「情報」を販売しているということを。
インターネットをお金を稼ぐことを総称して「アフィリエイト」と呼ぶこともこの頃知りました。 そしてある情報商材を買いました。9800円。決して私には安い買い物では無かったです。 その商材を済から済まで読みました。そして実行しました。 その商材の内容はごく簡単なもので、ロリポップでサーバーをレンタルし、ムームードメインでドメインを取得、 そしてロリポブログでアフィリエイトをする、というもの。私はこの通りに3つのブログを作りました。しかし稼げない。 どうして稼げないか、さんざん悩みました。どこか手順が間違っていたのか、 まだ不慣れだったHTMLタグなどに間違いは無かったのか。朝起きてから夜寝るまで、ずっとパソコンの前から動きませんでした。
これが私のアフィリエイトの始まりでもあり、情報商材買いまくりの始まりでした。
稼げないのは私じゃなくって、情報商材のせいにしてしまったんです。 もっと基礎的な知識を身につけないとダメだと思ったんですね。 ちょっと大きな本屋に行けばネットで稼ぐとかオークションで稼ぐとか、いくらでも情報は手に入ったんですが、 インターネットで調べ抜いて見つけた情報商材には追いつかない程度のことしか書いていないんだろう、 と勝手に思い込んでいたんです。
インターネットで調べて、Adsenseだけで月に数百万円も稼いでいる人もいるらしい。 なのになぜ自分はゼロなのか。その答えは次の商材に書いてあるはずだ、 そしてそれを実行すれば最初に買った商材の元なんてすぐに取り戻せる、と思っていたんです。
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2010年11月15日 | コメント/トラックバック(0) |
インターネットの世界へ
最初はどこのサイトから情報を得たのか忘れてしまいましたが、インターネットのアンケートでポイントを貯めるというのはやったことがあったんです。 今ではかなり知名度が上がっていると思いますが、「マクロミル」というアンケートサイトです。 ここは予備アンケートと本アンケートに分かれていて、予備アンケートで属性に合った方に本アンケートをしてもらう、 というアンケートサイトです。本アンケートまで進むと200ポイントとかもらえます。これはアンケートの規模にもよるのでなんともいえません。 1ポイント1円で換金してくれるので小銭稼ぎにはちょうど良かったんです。
でも、いくら本気でアンケートをやっても、稼ぎなんてごくわずかなもの。 1ヶ月で1万円も稼げません。この心境の変化、わかりますかね。登山が一段落し、家族を養わなければいけないのでお金が必要、 でも会社にいけないので家の内職的なコトで稼げないか、という思考の変化。
私は「インターネット」とうい途方も無い世界を知ってしまったんです。当時の私はアフィリエイトなんて言葉すら知りませんでしたが、 家族を養うために「インターネット」で稼ぐしかない、と思い込んでしまったんです。これは医者にも言われましたが、第2回目の大きな「そう」の始まりでした。
それから私の「インターネット調査」が始まりました。前述のマクロミルのようなポイントサイト、 フルーツメールのようなメールでのポイント、ホームページを作成してのドロップシッピング、ブログとうい存在、 在庫を持たずして商売ができる仕組みがあるという情報、クリック課金型の広告、色々と調べました。 そしてどうやらつわものは月に数百万円も稼ぎ出す人もいるらしいとのこと。もう私の頭の中はバラ色でした。
今、冷静に思えば「うつ病の脳みそ」でそんなビジネスができるはずがありません。 きちんとした判断もできないのに、とてつもなく大きなビジネス市場でどうやって稼ぐのか。よくもまぁ、そんなことにチャレンジしたものだと、 今はそういう風に思えるようになりました。
しかし当時の私はすっかりインターネットで稼いでいる自分しか見えていなかったんです。 これが2008年度にかけて踏み込んでいったインターネットの世界への第1歩でした。
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2010年11月15日 | コメント/トラックバック(0) |
家族を養う思い
2007年3月16日から休職に入って、最初の正月を迎えようとしていた頃でした。 有給休職、無給休職と経て、ついには会社からではなく健康保険からの傷病手当金のみが私たち家族の唯一の収入となりました。
収入は減っていたのに同じマンションに住んでいたのですから、妻にはやりくりの面でかなり迷惑をかけたと思っています。 10万円近い減収だったと思いますので。しかし妻はそれに対して文句を言うわけでもなくやりくりをしてくれていました。
そんな妻に対して今思うとずいぶんとひどい仕打ちをしてしまいました。詳細はメニューをたどっていくとお分かりになりますが、 トラウマを残し、息子と2人共、恩をアダで返すような仕打ちをしてしまったんです。大切でかけがえのない存在を私は自分の手で失ってしまったんです。
家族への思いというのは昔から人一倍強かったと思います。医者にも指摘されました。 「あなたは家族への思いが強すぎる」と。しかし私が築いた家族ですから、全身全霊で守ろうと決意していたんです。 私の戸籍で私の扶養に入っている妻と息子。そんなかけがえの無い存在を、うつ病になってしまってからどのように養っていくかを必死に模索していました。
しかし答えが出ないんです。今まで考えて答えが出ないなんてコトはありませんでした。 しかし、休職の身でいかにして家族に食べさせていくか。質素な暮らしをしていれば最低限のお金は健康保険組合から支給されますが、 人間、生活のランクを落とすのってなかなか厳しいんですよね。家賃の安いアパートへの引越しも考えました。 しかしそれは医者を始め会社の健康管理室の保健師も反対しました。引越しは復職して落ち着いてからの方がいいと。今は病気を治すことに専念しなさいと。
息子に美味しいものを食べさせてあげたい、妻に負担をかけたくない、 そんな思いばかりが先行し、イライラすることが多くなっていたような気がします。
この頃は、自宅に近い立川の病院に通院していたのですが、この時、一番最初に通院した時に処方された「パキシル」は、 人間が飲む量の最大量を飲んでいたそうです。これは後で産業医面談が復活したときに分かったことです。
家族を養う、その思いがMAXに達し、私は1つ行動を起こしました。インターネットでお金を稼いでやろう、と思い立ったんです。
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2010年11月15日 | コメント/トラックバック(0) |

